5−(5).私の山道具変遷
山行時に自分を守ってくれるのが山道具です。山登りの三種の神器に、登山靴・ザック・雨具と言われていてその中でも登山靴には思い入れがあります。
登山靴;一番初めに買った登山靴は革製で\9,800で当時の給料\7,000位と前にも書きました。山から帰るといの一番に手入れを、水洗いで汚れを落とし乾いたら保革油を手で塗り込んでまさに宝物を扱うようにしていました。しかし、古くなるにしたがって本体と靴底が剥離しトリコニー・クリンカー・ムガー等の靴鋲を山の店で買って自分で打っていました。
八幡時代もこの一足で通し君津転勤後も愛用していましたが、黒川君と5月連休に白毛門から巻機山を目指した時吹雪に見舞われ松の木の頭でテント泊、靴に氷水が染みこんできて大変な思いをして二足目も革靴を求めた。
冬山に行くようになって足の指先が暖まるのには1時間以上かかり、唐辛子を靴下の中に入れたり対策を取ってきたが効果はあまりなかったような気がする。
三足目も革靴で恰好が良かったが小さくて足指の血行が良くなくやはり冷たさを感じて使用頻度は少なくて終わった。当時流行りのプラシューズも求めたが保温効果も無く歩き難くこれは数回履いただけで止めた。
アコンカクアの高所登山にはと知り合いの山の店の靴専門担当の人に相談すると進められたのが‘スカルパ’の二重靴でかなり高価だったがモデルチェンジ前で少しは安く手に入れ、日本の冬山でも全く苦にすることは無くなった。
直腸癌退院記念でやはりスカルパ製の靴を求め、ロウカットの靴もスカルパを求めた。
現在保有しているのは冬山用・春夏秋スリーシーズン用・房総の山用・ハイキング用の4足がメインです。他に渓流靴やトレラン用があります。
アイゼン;靴が変わるとアイゼンも買い換えないといけないのが痛手です。
1番目はTANIの鍛造品の8本爪で一本絞め、ワンタッチ式になってから久しく燕岳
ピッケル;ピッケルを持って山に行くなんて考えたことも無く、必要な時は先輩から借用していましたが、初めて手にしたのはHopeのシャフトは木製で今も年1回は亜麻仁油で磨いています。木製は珍しく八ヶ岳のある山小屋の親爺から譲ってくれと言われたことがあります。2本目はアイランドピークに行くときに求めました。
ザック;当初はキスリングで九州の山・北アルプスも担いでいて、約40s位の時もあり背中の骨が剥き出ることありました。荷物が少ないハイキングは秀山の布製を。その後山備品が軽量化になり一時ミレーのザックに凝ったことがありますが、今は目的別に使い分け11個のザックがあります。
コンロ;初めは固形燃料でお湯を沸かすにも時間がかかっていたが、灯油のコンロからホワイトガソリンのホエーブスに変わって数段も効率が良くなったが、ホワイトガソリン(火炎瓶に使われていて)の入手困難の時代もありました。
その後はガスボンベ+カートリッジ組み合わせで軽量化・安全性も良くなりました。今はジェットボイルの時代になってきたようです。
逸話があります。黒嶽スノーハイキング時に、K君に「ボンベとカートリッジ持ってきた?」K君「ボンベは持ってきましたがカートリッジは装備計画に無かったので持ってきていません」「馬鹿野郎、ボンベとカートリッジは夫婦みたいで一体ものだろう」と昼のラーメンは食べられなかった。当時K君は独身だった。
雨具;ポンチョは強風が吹けば裾が舞い上がっていた。ナイロン製の上下は冬山ではオーバーズボン・オーバーヤッケの役割をしたが、夏は蒸して内側も濡れるので私は傘をよく使って、中央アルプス縦走時風の中を傘をさして歩き通して空木小屋に着くと先行者からこの風の中をよくも傘でと…勿論ずぶ濡れで小屋の親爺が着替えを貸してくれた。ゴアテックになるとオーバーズボン・オーバーヤッケも進歩し、夏の雨中の蒸れも改善されて雨も楽しくなった?
シュラフ;初めて手にしたのは進駐軍の放出品で嵩張っていて重かった。次のシュラフもオールシーズン用で保温材は化繊綿のポリエステルでやはり嵩張って重かった。
やはり軽くて暖かいものが欲しくなりスリーシーズン用は天然素材のダウンを求めたがダウンが抜けていったが重宝して使った。他に半シュラフも持っているがあまり使った記憶はない。海外高所用にマイナス20℃まで対応できるダウン入りシュラフを求めて、日本の冬山では全く問題なく過ごせて。
冬の鳳凰小屋でシュラフ事件が起こった。小屋で飲み過ぎたYK君が自分のシュラフを破ってしまい羽毛が小屋中の散らばって片付けるのが大変だった。
カメラ;山歩きを初めてカメラが欲しくなって当時の手取りの3倍以上で、出始めの一眼レフのアサヒペンタックスS2を求めた。初の北アルプス/立山・剣で撮りまくって帰ってからの写真代が給与天引きだったが、これまた給与はゼロになっていて写真屋にクレームを付けたら食事を出すからと乙番(14:00から勤務)の出勤前に寄って昼飯を食べたりした。‘平蔵谷でグリセードする岳人’は月例写真展入賞したが写真代の代償は大きかった。
フイルムはリバーサルを使ってコントラストを求めスライドで鑑賞していたが映写機が壊れて、普通の銀塩フイルムに。デジタルになってカメラもコンパクになって2台保有していて記録代わりにも使いこなしていて、HPにアップしています。
写真も自分でA3ノビにプリントして写真展も数回開いた、プリンターが壊れたのを機会にプリントを止めて油絵に転向した。油絵の基礎も全くなく山を見て自分の感覚で描いていて、下界から山を眺めて描くのは風景が、山を歩いて同じ視線で山を描くのは山岳画と自負していますがいつまで続けられることだろう。
地図;今はスマホのヤマレコに頼り切っていますが、当初は2万5千分の一に地形図から読図をして歩いたものです。その後、「山と高原地図」や「分県登山ガイド」や「カシミール」からルートを把握して歩いたものです。
2万5千分の一の地図は全国を網羅するくらいにまだ手元に残っていて埃を被っています。千葉県の「分県登山ガイド」にナタメ会が開拓した「房州アルプス」が掲載され山田の名前が紹介されたこともありました。房州アルプスの整備に10数年は続き、房州テラスでは大テントを張って忘年会を行ったものですが、もうそんな元気があるメンバーは無くなりました。
山には車が必須の時代になりました。私が車の免許を取ったのは1977年36歳の時で仲間より大幅に遅れていました。何故なら、自分には足があるから歩いて何処にでも行けると放言していたら、職場の女の子が勝手に自動車教習所に申し込みをしていました。免許取得後初めての車はマツダの中古、これはゴルフの帰りに追突され、次は日産でスキーの帰りにエンジンルームから水蒸気が、何と冷却フフアンに布切れが絡んで所沢に置いて電車で帰って翌日取りに行ってもらったら修理工場のミスでした。三番目は自分で選んで4WDのスバルのレオーネ、これは優れものでした。4番目はスバルインプレッサ、5番目も2005年スバルのフォレスターでスバルに変えてから山にスキーに大活躍してくれ、この車で終止符を打つつもりだったが走行距離150,000qでダウン。
近場の山にはまだ足が必要なのでダイハツ「ミライ―ズ」NO634(武蔵)の中古を求めました。遠距離には自信が無くなり、今は仁さんのパジェロに頼っています。
以前は黒川君のトヨタハイエースも山行に活躍していました。