3.君津転勤後の仲間と思い出の山々

君津製鉄所の建設・稼働に伴い八幡から民族大移動と言われていて、昭和438月(1968年)に転勤。八幡の職場からは「山田は関東は山もスキーも近いから希望したのか」と言われたが、微塵にも思ったことはなく新天地での活躍を願っていたが結果的にはそのようになってしまったようだ。

富士山・谷川岳・尾瀬には登りたいと思っていたので、9月に先に転勤していた先輩諸氏を誘って谷川岳に。満員の夜行列車で土樽〜茂倉岳〜谷川岳〜天神尾根で、みんな眠くて登山道で夜が明けるまで眠って明るくなって登りはじめ、水上温泉で泊まる予定だったがその日のうちに帰君した。

職場の中で山に行きそうな人は少なく単独で出かけていた。一番思い出にあるのは北穂高で、金曜日勤務が終わると夜行列車で松本に、松本電鉄で島々から上高地へ、その日のうちに北穂高へ。翌日曜日は北穂・奥穂・前穂から岳沢を経て上高地に下山して、松本で夜行列車に乗るまで飲んで月曜日の早朝に君津に着いて出勤するということを繰り返していた。

松本の街の居酒屋でメニューの「馬刺し」を何ですかと問うと「うまさし」って馬の刺身と言われ隣の酔客から勧められて初めて口にし、以降よく食べていました。又、飲み過ぎてピッケルを忘れて帰り翌年取りに行きました。

11月初旬でしたが雪が多く、奥穂から前穂の吊尾根は雪でマーキングが隠れてラッセルをしながら進むと前穂側からソロの登山者が、お互いに握手してこれから先はラッセルをしなくて助かりました。

黒川君から誘われて南アの甲斐駒・仙丈岳に誘われ3000mクラスの冬山に胸躍った。仲間は初めて会う吉島君と鶴君で新宿駅のホームで純粋に山を語った記憶あり。

鳳凰三山の冬山で稜線のテントの中で会を作ろうと飲みながら決まったのが「鉈目会」でナタメとは森の中の木々に鉈で目印をつけて、頂への道導としたものであり、『我々若者が、豊かな人間愛を求め、彷徨っても、お互いに助け合い、育て合い、語り会って、人生への頂へと導き合って行こう』そういう主旨です。

それから年末年始の山はテント泊で我々の体力・技術では範囲が限られて南アの仙丈・甲斐駒に八ヶ岳、北アは燕岳に爺が岳・西穂高・蝶が岳を歩いていました。

5月ゴールデウイークには残雪の山を求め、秋は紅葉の山を求めて、夏山には各自で好きな山に行っていました。

冬山から一つをあげると、西穂高岳でしょうか。西穂山荘の前にテントを張り山頂までの雪の尾根のピストンは緊張しっぱなしでしたが、テント場では取材を受けて雑誌に載ったりしました。

連休は燕岳テント場で強風と雨のため停滞、テントは雨漏りして中で傘を、2日目には小屋からテント撤収して小屋に入るよう催促されたが我慢、3日目はついに小屋に入るよう強制された。稜線で風下に向かって立ションすると股下からの強風で小便が飛沫になって顔を洗っていた。4日目は雨も止んだので出発、燕岳〜常念〜蝶ケ岳〜横尾と腐れ雪の中を1日で歩いて真っ暗になって横尾に到着しテント泊、一人は疲労困憊で小屋泊にしたがそれ以降彼は山には行かなくなってしまった。

杏里(娘)が小一の時に燕岳・常念を縦走して、常念小屋のテラスで槍ヶ岳を眺めて「次は登りたいなー」と言っていたが叶わなくて夏休みは東北の八甲田山・岩木山・岩手山・八幡平・安達太良山・早池峰山に登ったが、中学になると「部活が忙しいのでお父さん達とは付き合わない」と言われました。

雪の平標山は待ち合わせの君津駅で酒臭い顔の黒川君は「スミマセン、今飲み会で明日平標小屋に行きますので」と帰った。紅葉に雪という幻想的の中を歩いて登山者で賑わっていたが登山道に入ると3パーティのみで雪が深くなり3組で交互にラッセル、2組はここでビバークしますとのことで今日の相棒MHさんと二人ではなかなか進まなく、雪原に各々が横になれるよう雪を踏み固めて、夕日に染まる万太郎山は印象的でした。が、寒くてウイスキーたぬきで内部から温めて一時間おきに目を覚ましていた。翌朝、後続の2パーティーが登ってきてその後は彼らのトレースを使って山頂から小屋に着くと主から「何故引き返さなかったのか」とか説教です。その時他の人が湯のみに酒を入れて渡してくれ彼女の分も一気飲み。黒川君は前日小屋に来たそうですが我々が着いていないので引き返して遭難騒ぎに。小屋から我々が無事到着したと後閑駅に連絡が入って駅のホームにその旨の掲示板が掛かっていました。その看板を見て帰って行ったご機嫌斜めの彼とは上野駅でバッタリ出会い一件落着です。

特筆は千枚岳でしょか、浩宮殿下(現天皇陛下)と写真に納まった時に報道陣のシャッターを嵐のように浴びて、下山して名古屋の新聞を見ると載っていたのは「殿下がある登山者と山頂で会話された」の一言のみで写真は全くなかった。

北海道の百名山は中久保君・黒川君と小生の三人で歩きましたが、幌尻岳は雨で小屋に閉じ込められて3泊したが食料の持ち合わせなくひもじい思いをして、水が少し引いたのを確認して無事下山出来たこと、旭岳〜トムラウシ縦走も初めは雨に祟られて、北海道には梅雨が無いと言うのは真っ赤な嘘でこのころからもう温暖化の影響だったのでしょうか。

百名山ラストの羊蹄山と利尻岳は近子と二人で、隣人の瓜生ご夫妻が羊蹄山の麓でドライブインを開かれていてに世話になりました。

北海道生まれの吉島君が羅臼岳・阿寒岳・斜里岳には登ってなく、硫黄岳から羅臼岳縦走の条件で帯同し、途中羆の遊び場と言われる個所で足が攣って大慌てしましたが無事通過できました。北海道の山は下山後は釧路の街での飲食が楽しみで<MY>のスナックは3回寄ったかなー。

奥穂高からジャンダルムの頂に立つ人を眺めて羨ましく思っていてガイド付きのバリエーションルートは西穂〜ジャンダルム〜奥穂〜槍が初めてです。槍ヶ岳の山頂で北側の岩から登ってくる満顔の北鎌尾根、剣岳山頂で休んでいるとこれまた満足げな登山者は北方稜線から、甲斐駒から延びる鋸の歯のピークの鋸岳、山梨百名山の西沢渓谷の鶏冠山と5回挑戦しました。雪の道志の山々は日野出屋を拠点にして野趣あふれる料理の数々を20数年間お世話になりました。

桃の花マラソンの前日は山に登り、宿は豊原荘のお母さんと嫁いだ娘さん達もこの日は帰ってきての手伝いで素朴な手料理も数十年続いただろう。

5月連休時の佐渡の山は足の踏み場もないほどのカタクリ・ユキワリソウ等々の花のオンパレードで2年連続して歩きました。

大好きな山小屋と問われると船窪小屋で、小屋への登山道も変化があって温かく迎えてくれるお母さんです。針の木岳・蓮華岳から、七倉山荘から、平の渡しからマイナーな針ノ木古道を経て船窪小屋へと。烏帽子岳への縦走も起点として歩いたものです。

上越の浅草岳・守門岳・会津朝日岳・荒沢岳・未丈ケ岳・大源太山等も花や残雪等と思いで深き山でした。新潟の清水部落の小野塚民宿もお世話になりました。

 土合から朝日岳・清水峠を越えて13時間の行動で先に両山田が到着して玄関にビールを用意してもらって全員が揃ったところで玄関前で乾杯は最高でした。その夜疲労困憊だった石田君が寝言で「誰だ、こんな計画したのは」と叫びました。この宿は日本酒巻機山を1本サービスしてくれていたが生ぬるいので事前に冷やしておいてと電話で頼む厚かましさもありました。

2000座を狙って、長瀞アルプス・飯能アルプス・奥沼津アルプス・愛川アルプス・都留アルプス・相川アルプス三浦アルプス・宇都宮アルプス・鎌倉アルプスもナタメ会やソロで稼がせてもらいました。

東北支部の仲間とは五葉山・白神山・森吉山・みちの潮風トレイル等を歩くのが目的か酒を飲むのが目的か判らないような愉快な仲間でした。

吉島君と二人の笊が岳も印象強いものです。遠くからも確認できる双頭の山で何時かと思っていましたが、急登の連続で山頂でのテント泊と飲料水を一人4g?に吉ちゃんがビールも担ぎあげてくれもう二度と行かない山でしょう。もう一つは安曇野から身近に見える有明山で結構手こずって登る途中から「もう二度と登らない」の声が上がっていました。

ソロで印象に残るのが信越トレイルでガイドブックには歩いて5日間のコースですがランニングで二日間でしたが、1日目は真っ暗くなって宿泊地に、山の中で携帯が繋がらづ宿主が車で繋がるところ探したようで迷惑をかけてしましました。

今回、2000座に一番貢献してくれたのが房総の山で後半1000座のうち313座を稼がせてもらいました。大半がソロですがここ数年は小川さんの協力があってのものです。

2018年小川山の登山途中で失神して倒れて皆を心配させましたが、帰宅後の診察結果は「心房細動」とのこと、その年の年末八ヶ岳では歩いていて脱力感で登頂は断念。ランニングも出来なくなりウォーキングに切り替えましたが長い下りには足がふらつき筋力が衰えてるとのことで膝の筋力アップに取り組んでいてもう少し山を歩かせてもらいたいものです。

 

千枚岳にて浩宮殿下と

利尻100名山達成

鶏冠山
ナタメ発足メンバー
祖谷渓温泉にて