2.九州時代の仲間と思い出の山

昭和31年に日本山岳会マナスル遠征隊(隊長槙有恒)が登頂成功して、三人寄れば山岳部が出来たといわれる昭和34年に社会人となりました。他に遊びといえば社交ダンスがありましたが、入社同期の坂野君が「山田、山に登ろう」の声掛けに、山の道具を揃えようと二人で会社の購買会に出かけました。登山靴は当時の価格で¥9500、私たちの給料が手取り約¥7000位と記憶しており他にザック・帽子・飯盒・ラジュース等を一緒に求めているので一年月賦で買ったのでしょう。

そして登山靴を履いて足慣らしに牛斬山・英彦山に登り、職場の「製鋼部山岳部」の伯耆大山に誘われ紅葉の山、霧の山、急峻な尾根に魅了されてしまって山へ取り付かれるようになりました。

それから気心の知れた同期仲間とSCRAP36CLUBという山の会を作り、九重山荘を起点にして九重連山を四季を問わず蝸牛のごとく這いずり廻しり、半世紀を過ぎても6人の山仲間の絆は兄弟以上に強く継続していましたが光君・芳章君は残念ですが逝去してしまいました。

SCRAPとは、入社の職場が製鋼部門で当時は平炉主体で主原料の鉄屑から鋼を製造し加工され製品として出荷されて世界中の世の中に生かされることから、我々も今はスクラップ(屑)だが近い将来は世の中のために役立つ人間になろうと昭和36年に結成してSCRAP36会と名付けました。

印象深いものの一つに、深雪で長者原から法華院に辿り着けなく諏蛾守避難小屋の中にテントを張って、小屋の中には先週の北千里で遭難死の遺体処理の後と食料が供えられていて少しいただいたりしました。翌朝も法華院を目指したが腰以上の雪に諦めて長者原に引き返し九重山荘までもラッセルでようやく辿り着いたことです。翌朝、山荘の裏斜面で初めてのスキー経験、スキーにも翌年以降取り付かれてしまいました。

屋久島も印象に残っています。当時は空港も大きな岸壁も無く鹿児島港から船で沖合から艀に乗り移って上陸。

安房から宮之浦岳を経由して永田集落まで横断はトロッコに乗ったり分校に泊まったり宮之浦岳と永田岳鞍部でテント泊し、下山後の永田浜の旅館では学生と社会人のビールの値段が違い我々は学生と偽っていたが女将さんにはバレバレだったが学生扱

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いにしてくれ、安房港に戻るパン屋さんの車に便乗させてくれ、尾之間の民宿で熱燗10本頼んだが芋焼酎の熱燗で強い臭いに1本空けただけで、翌朝民宿のお母さんが屋久島では酒と言ったら芋焼酎、日本酒と頼まないと言われたが残りの9本は請求されませんでした。これ以外にも話題一杯の山旅でした。

脊梁山系の山も印象に残ってます。途中道に迷って1日目は林業の作業小屋、2日目も登山道に戻れずテント泊するも水が無く、焚火の中に里芋を焼いて、水代わりにラッキョウの汁をみんなで分けてすすって、3日目ようやく登山道に、缶詰の空き缶にたまった水を見つけて「ボウフラが生きているから大丈夫」との声にこれも啜った。少し先に湧水を見つけて飲んだ山水は命の水だった。

豪雨の連休の大崩山は山の印象は全くなく、増水した川を横断するときに肩を組んで足は川底から浮かさないように摺り足で渡り終えたときはホットとし、屋根のみの作業小屋の中でパンツ1枚になって濡れ物を薪を焚いて乾かし、翌日下山時に私がトップで歩いているとき3本の丸太を渡っているときに両端の2本が折れて真ん中の1本に股が落ちて、無意識のうちに岩壁の生木を掴んで止まった。もし、落ちていたら濁流の中に飲み込まれていただろうとぞっとする出来事で、巻道があったのを見逃していたのです。数年前、大崩に誘われて歩いたが記憶に残っていたのは終点のバス停のみでした。

井筒屋グループとも数多く山を歩きました。彼女達とのきっかけは職場の先輩が山田さん「犬ケ岳」に行きましょうと誘われて夜勤明けに英彦山・岳滅鬼山から石楠花で有名な犬が岳でした。先輩曰く「月曜日はデパートが休みなのでデパートの女の子が石楠花目当てで山に来るから」の言葉に、ところがそれらしき女性軍はいなく下山コースの岩場で戸惑っている女性軍に助け舟?を出して、帰路の汽車の中で彼女たちが井筒屋デパート勤務と分かって意気投合して黒崎駅前の焼き鳥屋舌鼓に。   その後、九重・根子岳・越敷岳・宝満三郡等々の山に帯同して多くの山座を稼いでいました。

八幡製鉄所山岳部が立山三山の募集を、スクラップメンバーから北アルプスとはどんなところか偵察を兼ねて「山田行ってこい」とのことで参加。当時は室堂まで道路はなく弥陀ヶ原が終点だったが、高山の平原に度肝を抜かれて、翌日はみくりが池から立山三山を縦走し別山乗越で「今から剣岳に行く人」のことでイの一番に手を挙げ、蟹の縦這いでは膝がガクガクしたが山頂に、今日の山宿の雷鳥荘には真っ黒になって到着したが疲れは全く感じなかったのは若さの性だったのだろう。

 スクラップ最初の北アルプスは、建三・一男・芳章・睦男4人で後立山連峰の烏帽子岳〜槍ヶ岳〜穂高岳〜上高地の縦走、槍ヶ岳で芳章君が高山病で顔を膨れあがったが下山すると元に。キスリングを背負って大キレットを通過し、降った上高地の静寂な神秘的さに魅了された。又、山小屋には1泊に米3合を持って行った。

翌年は建三と睦男二人となったのは寂しかったが、白馬岳〜鹿島槍ヶ岳〜針の木岳を縦走、この時睦男はバテバテで建三君がポイント毎に待ってくれて、針の木雪渓の降りは足を引きずって歩いた記憶が残っている。浅間温泉で汗くさい身体を温泉で流し美ヶ原行の最終バス時刻よりとにかく飯だと食べていたら車掌さんが臨時バスが出ますと、なんと二人のために臨時バスを出してくれ心温まる対応に感謝し、美ヶ原の夜はキャンプファイア―を輪にして踊った記憶があります。

翌年も建三君と2人で太郎平小屋〜黒部五郎岳〜笠ヶ岳縦走。有峰で下車予定が満員で降りそこなって一つ先の駅で下車、歩いて引き返していると軽トラに乗せてくれてバスに間に合ったなー。双六小屋では「九州からなんでメインルートを歩かないの」と問われたり、クリヤ谷の下りでは仙台の神父さんと同行し、暑くて谷川の中で水浴びしたりして下山後の槍見館の露天風呂でのビールは最高だった。

翌年は建三・睦男に久夫君の三人で一の越〜立山三山〜剣岳ピストン〜欅平の縦走、剣沢ではグリセードの練習、近藤岩から無謀にも三ノ窓をピストンしたが登れた岩場は下りは怖くてクレバスに架かったスノーブリッジを無事通過した時は死から蘇った気持ちでした。

この時代は夏休み一週間を利用して九州からの遠征で、今考えればみんなよく休みを取ったものだと感心します。

スクラップ以外に誘われたら何処のグループにも着いて行っていたし、単独では祖母山・久住山・福知山を良く歩いたものでした。特に祖母の九合目小屋の佐藤の爺さんとは懇意になってよく通ったものです。

 

 
烏帽子小屋にて 九重山荘のスタッフと 懐かしい大崩山再訪 愛用したキスリング
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