1.        2000座への第一歩

 2000座の第一歩は何処か問われると、恐らく小学校低学年遠足の六ツ岳(339m)だと思う。当時の遠足と言えば書いて字の如く遠くまで歩いて出かけていました。

 小学校高学年になると校歌に歌われた金剛山(562m)、中学校はこれも校歌に歌われた福知山(901m)で実家の2階からも眺められ、この二つの山は遠足以外にも近所の餓鬼友達と社会人になってもよく登ったものです。

山との関わりに深く滅入り込んだのはそれは成人式です。

三交代勤務の夜勤明けに眠い目をこすりながら出かけると、中学同窓の女の子二人が振袖姿で目映くありましたが、最大の印象は串田孫一さんの講和です。

彼は福原プロの映画を見て知ってはいましたが、彼の話に眠気も吹っ飛んで、その中の一つに冬山での耐寒訓練の一つとして街中では「手袋は着用しない」の言葉に、はめていた手袋をそろっ〜と外したことを覚えています。

その後、彼の山の本を読み漁り、彼の思考に共鳴(感化)し、少なからずも私の人生観に大きく影響を及ぼしたと思っています。

もう一人私に影響を与えた人が居ます。登山家の芳野満彦さんです。

私が1974年初めて海外トレッキング(ネパール・カラパタール)時のツアーリーダー吉野満彦氏で、三浦雄一郎氏がエベレスト滑降直後だった思いますが、彼がカトマンズ空港で迎えに来ていて、芳野さんは「山田さん、俺カトマンズで雄ちゃんとマージャンしておくから、トレッキングは頼むね」我々5人は日本人ガイド無し、小生は通訳を兼ねて?のトレッキングとなりましたが、これが又楽しいものでした。

帰路のバンコク空港乗換時にトラブル発生です。飛行機の予約がされてなくもめて長時間待たされる破目になったとき、芳野さんが「白い日記帳」というタイトルの冊子を私に渡して『これでも読んでいて』と、それは彼の山の日記帳で、彼の山への思慕がメモ風に断片的に、スケッチも添えてあって、山の本のネタ帳で、その後も彼の個展に幾度となく足を運んでいました。

これがきっかけで、私は翌年から「白いノート」という日記帳を買って、山で体感したこと、私生活の喜び悩みを綴りはじめて、2021年で46冊目となっています。

その二人も、串田さんは2005年、芳野さんは2012年に逝去されました。ご冥福を祈ります。

                   

房総の地・君津に昭和43年転勤してきて、山やスキーが近くなったと喜んで、この地でも新たな山仲間「君津鉈目山の会」を結成して、あちこちの山を歩き続けました。又、房総ファミリアで‘登山教室’を開催することになり、山は素人の集団で「こぶし山の会」を結成して新しい山・古い山を歩いて自分自身の成長が出来た時代でもありました。

吹雪の連休の白毛門山行の時、体力の衰えを少し感じたのは35歳の時でした。その後も若い仲間に付いて歩く事が出来ず、ライフワークとして山を続けるには足腰の強化が必要だと痛切に感じた。それにはジョギングが一番の薬だと山の雑誌で読んだので、始めたのが45歳・1986年の時です。

はじめは30Km/月でフウフウでしたが、友から大会に出てみたらと言われ、素人が出られる大会があるとは知りませんでした。そして1年後に近郊では知人に会うと恥ずかしく山梨の巨峰10Kmに一人で挑戦しました。その時の会場の雰囲気が楽しく、それ以降仲間を誘って参加するようになりました。

山への効果大で        若い山仲間とも対等に、いやそれ以上に歩く事が出来る様になりました。フルマラソンへの挑戦        はある大会で10Km完走後ゴールの近くで応援していたら、自分の限界を越えて顔をゆがめ必死の形相でゴールに倒れこむ姿を見て感動、2年後に挑戦。でも、初フルでは心臓・足の苦痛はもちろんでしたが、腕が痛く振ることが出来ないのが一番辛かったです。ゴール後「もう二度とフルは走らない」と待っていた女房に言いましたが、帰路の車の中では次のレースを思い浮かべていました。フルに飽き足らず、皇居50Km・サロマ100Km・奥多摩山岳耐久レース(5回参加して完走し年代別では年代別では3位入賞もありました)。富士登山競争は8回挑戦しましたが時間内完走は残念ながらなりませんでした。 20181月の若潮フルがラストランで5時間をオーバーしてしまいましたが、これらの積み重ねが山歩きに生かされてきたと思います。

結婚して山を辞める人、故郷に戻った人、体調不良の人、高齢の人、逝去した人に、直近ではコロナで山から遠ざかる人・・・と山に登る人は少なくなりましたが、それでも山を愛する仲間が山親爺の2000座に同行してくれ助けてくれました。

こうしてコツコツと歩いた結果を数値で表現すると、

 1995916日;利尻岳で深田久弥日本百名山35年の歳月をかけて完歩

2005917日;荒倉山(山梨)で10002015年6月6日;大渚山で1000座

2006617日;小蓮華岳(新潟)で47都道府県最高峰登頂

2007114日;継足しの日本山岳横断達成日本海〜太平洋)

2008630日;君津市の山36座一筆書きの踏破

20201114日;高宕山600回記念登山     等があります

山歩きの脚力を試すためのウォーキングも始めました。

1992年;ソロでフォッサマグナ横断(日本海〜太平洋300q)

1994年〜1997年;高松ワンゲル主催の諏訪湖から球磨川河口までの中央構造線1000Kmを完歩

2001年;鉈目会で海抜0m田子ノ浦〜3776m富士山頂

2007年;ソロで四国八十八カ所霊場お遍路通し歩き36日間)等々

山歩きで自然と対峙していると、人間と自然とのかかわりを身を持って教えてくれ、自然に優しく接する心を養ってくれ、自分自身を見直す時間を与えてくれ、他の人への気遣いや思いやりも少し出来るようになってきたような気がします。

この間人生への危機も多々ありましたが、乗り越えられてきたのは良き仲間と山があったからだと思います。

平成22年(2010年)に「直腸癌」で入院、看護師さんから退院後の目標を書いてくださいと言われて「山を歩くこと」と書きました。人生初の21日間入院生活を強いられましたが退院一カ月後から山歩きを再開、ランニングは2019年の陣馬山トレランは制限時間オーバー、その後12月のマザー牧場トレラン・翌年1月の高滝湖ハーフマラソンは途中でリタイアしてしまいました。原因は少し走っただけで心臓がドキドキして息苦しくなり、医師からは心房細動と診断され、走りも山も酒もドクターストップと宣告されてしまいました。山も酒も止めると生きている価値はなく死ねと言われるのと同じだと思いましたが、20202月からランニングをウォーキングに、月200q目標で、初めのうちは体重・体脂肪・内臓脂肪率も低下したが、歩くスピードが落ちてくるとこれらの指標も又元に戻り始めました。でも、「継続は力なり」でウォーキングは続けて2000座を目指して頑張ることにしました。